9月27日 8,295歩 テツガクしながら歩くのだ

夕方4時で気温は17度。お昼頃までは晴れていた長野市だが、ウォーキングに出かける頃は雲がたくさん出ていて、かなり涼しくなっていた。長袖のジャージを引っ張り出してきて、いつものエムウェーブ方面へ歩き始めた。
ウォーキングを始めた頃はけっこう遠く感じたものだが、今や大して疲れもせずに到着してしまう。少しは体力が戻ってきたということだろうか。
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館内では、もうスケートリンクはスタンバっているんだろうか

エムウェーブに出る少し手前に、常福寺というお寺がある。その門前に、多くのお寺さんにあるような掲示板があって、そこには「『私は正しい』争いの根はここにある」とあった。もう2ヶ月も貼ったままになっているので、ここの住職は、その後新たな意見にたどり着いていないのかもしれないし、あるいはこの貼り紙も本山あたりから送られたものを、ただ貼っているだけなのかもしれない。
「『私は正しい』争いの根はここにある」・・・一見、そうだなぁとは思うが、「で、どうするのか」で人は戸惑うのだとおもうのだが、門前にその答はない。

往々にして、正しさは権威によって担保される。言葉には、何を言ったか、よりも誰が言ったか、の方が重要視される側面がある。権威の裏には、チカラが存在していて、それは経済力だったり、軍事力だったり、場合によっては神秘的な力が・・・なんてこともあるだろう。乱暴だが、大きく言えば宗教における神の教えがそうだろうし、小さくたとえれば、親が子供を「躾る」ことがそうだろう。いずれにせよ、一度権威を手にしてしまえば、好きなように「正しさ」を定義することも可能だ。
「正しさ」を定められた側はやはり、「正しさ」を定義した側よりは不利な立場にある。「正しさ」を意識するようになるまで、知らず知らずのうちに定めれた「正しさ」の中に生きざるを得ず、ある種の刷り込みを受けている面もあるだろうから。で、あるときに「ちょっと待てよ」となるのだが、「正しさ」そのものを競う場は、実はなかなか作りづらい。それならばいっそ「権威」をひっくり返す方が簡単だったりする。暴力なんかが分かりやすい。
とまで考えて、門前の言葉の意味を考えてみる。「争い」をどう定義しているのかが分からないが、「正しさ」そのものを争うことはあって良いんじゃないか、と私は思う。というよりも、争う中で、その時々の「正しさ」が生まれてくるのではないだろうか。気づかないうちに「正しさ」ではなく「権威」を争うことが多い、門前の言葉は、そのことを戒めている言葉なのかもしれないが、そうであれば、例えば仏教界には、現代における正義を語り合う場、なんかを提供するような活動があってもいいんではないだろうか、と思うのだ。
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本日の総歩数は、8,295歩。

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