みんないい、にはまだまだ遠くて  「私と小鳥と鈴と」・金子みすヾ を読む

わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。



金子みすヾの「私と小鳥と鈴と」という詩である。
この詩には、あまりにもナイーブな読解をする読み手が多いに思う。
代表的な感想としては「違いを越え、個性を認めあう姿が素晴らしい」「優しい気持ちに癒される」といったものだ。
果たして、そうなのだろうか。

まず、金子の詩に著されているのは、けして個性ではない、と言っておく。
小鳥が空を飛ぶのは鳥の特性であって、これを私(人間)や鈴と比べて個性と呼ぶのは誤りである。比べる意味のないものを比べているのだ。詩という世界の中で擬人化したもの、と捉える向きはあろう。だとすると、人間の個性を比べた後の最終行にある、「みんないい」という神をも思わせる視点は誰のものなのか。金子の尊大さが言わせた言葉なのだろうか。そうではあるまい。個性の違いを切り取ったのではなく、私にできること、できないことを挙げていった、と読み取っていいのではないか。

また、「みんないい」という語感に酔ったり、あるいは超越的にも響く高い視点からの言葉として、無自覚のまま咀嚼せずに受け取ってしまったりした読み手は、ここで「優しい気持ちに癒される」となる。だが、そんな人は、おそらく現実世界では、本当に個性を認める強さは身につけられていない、と思うのだ。小鳥を飼うときには、きっとキレイな鳴声の鳥を飼うはずで、うまく鳴けない小鳥に「みんな違っていいんだからね」と言い訳したりするんじゃないだろうか。下手な例えに少々言葉が過ぎたようだが、特性だけでなく個性に対しても、やはり価値付けしたい気持ちは、無意識に起きてくるものだ。できそうなのに、できるはずなのに、という願望の分だけ、それは自然に湧いてくる。そして比べられる者を傷つけ、ときにはは比べていた者をも苦しめる。


この詩の中の「わたし」ができることは、どうやら比較対照物と比べて、華やかさの部分では劣るよう描かれていると思う。コツコツと積み重ねる仕事を「わたし」はできる。本来ならば、できることに対する価値の違いはないはず、なのだが、やはり報われた思いをすることは少ないのではないだろうか。とすると「みんなちがって、みんないい」は、誰かに言ってもらいたい、という「わたし」の切なる叫びとして響いてくる。また、比べても仕方がないものを比べてしまう様子からは、「みんないい」までの絶望的な距離も、同時に感じるのだ。

それでも敢えて金子が「みんないい」と肯定的な言葉で結んだのはなぜだろうか、と思う。ナイーブな誤解が発生することも容易に想像できたはずなのに、と。そこには、遥か遠い「みんないい」の境地まで、それでもそこが目指せますか?という金子の問いかけがあるように、私には感じられるのだ。

「みんないい」世界は、まだ達成されていない。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック